黒澤ダイヤはスクールアイドルがお嫌い:二つの「Aqours」について

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前回のラブライブ!サンシャイン!!

突然ですが、TVA「ラブライブ!サンシャイン!!」の一期も、もうすぐ2周年ってところですよね。当時は心配と期待でハラハラしながら見てましたけど、かなり衝撃だったのが2話の、

「スクールアイドルが大好きな黒澤ダイヤ

という内容でした。だってびっくりするでしょ。

それがですね、1話での彼女は「スクールアイドルは認めない」というスタンスだったのもあるし、前作の生徒会長と重ねて見てたってのもありますけど、一番大きかったのは、原案の公野櫻子先生が書いてるG's Magazineでは「黒澤ダイヤはスクールアイドルを見下ろしている」という設定だったからです。そりゃびっくりするでしょ。(2回目)

今はすっかりスクールアイドルオタクとしてのキャラが定着しましたが、当時は「完全に別人」とか「キャラ崩壊」とか色々と言われてました。懐かしい。

さて、これは黒澤ダイヤだけの話ではありません。Aqoursの他メンバーやμ'sのメンバーにも、メディアによって色々と違う点があります。普通に受け入れてる人も、否定している人もいますが、どっちだろうと「別のキャラ」として認識してる人が多い気がしなくもない。

しかし。本当にそれで納得していいのか。本当に「黒澤ダイヤ」と「黒澤ダイヤ」は違う人間なのか。そういう話をしてみようと思います。真面目にね。

 

まずは違うところから:高海千歌の場合

また突然ですが、高海千歌の話をしましょう。彼女はどんな人間なのか?

明るく元気なAqoursのリーダーであり、普通すぎる自分にコンプレックスを持つ普通怪獣ちかっちー。

…というのはあくまでもアニメの設定ですね。G'sの高海千歌も「明るく元気なAqoursのリーダー」なのは同じですけど、彼女に「普通怪獣ちかっちー」の姿はないです。つまり、G'sの高海千歌には普通コンプレックスがない。

それ故に、アニメでは真剣に悩む姿や周りへの思いやりが目立ちますが、G'sは素直で元気な子ってイメージが強いです。設定の差が性格や言動にも影響を与えているわけですね。そしてその影響は、作品の展開にも繋がります。G'sの千歌が主人公だったらアニメの展開にはならない。もちろん逆も同じ。

この差は一体どこから来るのか。名前が同じってだけで中身は違うキャラだから?

ひとつ、前提を置きましょう。どっちも「高海千歌」であり、二人は同じ人物である。とりあえずそう考えることにします。公式は絶対ですから。これ重要。

じゃあ二人は同じ人物であるにも関わらず、どうして「違うキャラ」に見えるのか。それを語るには、疑問の方向性をちょっと変える必要があります。そもそもアニメの高海千歌はどうして自分の「普通」にネガティブを持つようになったのか?

1期1話。普通怪獣としてのコンプレックスを桜内梨子に語る高海千歌。彼女はその理由については口に出さず、しかしはっきりと回想しています。高海千歌が「普通」を語りながら思い出すのは、親友である渡辺曜と、彼女の持つ「特別」のこと。渡辺曜の誘いを断り続けたのも、たぶん自分の「普通」が原因で。しかしスクールアイドルは「普通の女子高生」でも輝けるから、一緒にやれると思った。アニメの内容はそう取るに十分なものでした。

じゃあG'sではどうなのか。いつも一緒で、お互いを強く意識していたアニメとは違って、G'sの高海千歌渡辺曜は「ただの友達」でしかありません。昔からの幼馴染。それだけの関係で、曜の「特別」を意識してるような気配はない。一番の友達というポジションに立っているのは、渡辺曜ではなく松浦果南で。コミック版で最初に誘われ加入することになるのも松浦果南であるくらいです。

今まで語った「事実」を繋げてみましょう。アニメの高海千歌は一番近い存在である渡辺曜にコンプレックスを感じていた。しかし、G'sの高海千歌渡辺曜とそこまで深い関係にはならなかったので、コンプレックスは生まれなかった。こういう結論が出ます。因果もはっきりと揃っている。

人間というのは、生まれた時から持ってる要素と、成長の過程で入手・変化した要素がありますよね。どんなメディアでも高海千歌は「明るく元気な子」である。それは先天的性質なのでしょう。対して、渡辺曜との関係によって「普通」に対する考えは結構変わる。それは後天的性質と言えるもの。

根本的には同じ人間だけど、成長してきた環境や軌跡が違うからその分の差が出る。

ちょっと違うところもありますが、それでも同じ「高海千歌」なのです。

  

次は同じところを:渡辺曜の場合

高海千歌渡辺曜との関係によって変わる部分がありました。じゃあ渡辺曜は?

アニメの彼女は、願いというか、悩みを持っています。千歌ちゃんと一緒に何かをやりたい。しかし高海千歌は「なぜか」それを拒んでいるし、曜本人もそれ以上踏み込む気はない。要領が良くて何もかも器用にやってみせる彼女ですが、一番「やりたいこと」だけは出来ないまま、というのがアニメでの主なポイントです。

しかし、G'sだと高海千歌とはただの友達でしかない。コミック版でスクールアイドルになるきっかけも、それこそ「たまたま通りかかってて」であるくらいです。自分自身を縛りつけるネガティブな感情がないおかげか、千歌と同じく彼女もG'sのほうがアニメより素直で純粋なキャラになっている。ちなみに衣装も作れない。

これだけでは高飛び込みをやってるって以外は全然違うキャラに見えますが、もちろんそれは違います。その高飛び込みという共通点が重要っていうか、高飛び込みが「象徴すること」が重要なんですよね。

これは直接見たほうが早いと思います。 

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 高海千歌に対する悩みが無いとはいえ、まったく何も気にしてないわけではありません。幼い頃の「みんなで遊びたかったのに毎回人数が足りなかった」という経験が軽いトラウマになっている。スクールアイドルに参加した表面的な理由も果南がそのトラウマを刺激したから。単純に気になってた、というのもありますが。

「みんなで楽しく遊ぶ」ことに対してそれなりに拘りがある渡辺曜。しかし彼女が実際に今やってるのは? 

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高飛び込みです。たった一人で水に飛び込む、孤独なスポーツ。周りの人たちにちやほやされていますが、いざ休憩になると一人で時間を過ごすだけ。っていうかこの風景、どっかで見ましたよね。 

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そう。アニメでも似たような描写がありました。ちやほやされてはいるが本人は困惑していて「一緒にいたい相手」との距離感がはっきりと出ているシーンでしたね。

コミック版では高海千歌によって「全日本級の実力」と説明されていますが、本人がそれを楽しんでいる描写はなく、むしろ高飛び込みの練習で忙しいことにがっかりしているくらいです。まあもちろん楽しくて始めたらしいし全然楽しくないわけではないと思いますが、少なくとも作中で楽しんでる様子はない。 

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結局コミック版の曜はみんなでわいわいやるスクールアイドルが本当に楽しくて、水泳部をやめるという選択を取ります。つまり、こう。才能を持っていて高飛び込みをやっていたのだけれど、一番「やりたいこと」はそれじゃなかった。出来ることとやりたいことの間で悩んだ結果、やりたいことを選ぶ。

素材や展開こそ違うけれど、大筋はアニメ版と一緒なのです。渡辺曜という人間が一番やりたかったのは、誰かと一緒に何かを楽しくやること。アニメ版ではその「誰か」が「憧れの高海千歌」に集約されているだけの違い。

どのメディアでも高飛び込みは、彼女の「自分が得意なこと」と「一番やりたいこと」が違っていて、その上で「一番やりたいことが出来てないこと」を象徴するものとして使われているわけです。

歩んできた人生によってそれが発現される形が変わった。けれども、もっと根本的な部分、人間としての「本質」は同じ。違いの中に存在する共通点こそがキャラの本質を表すのです。違いがあるからこそ見えるものもある。どちらも自分に悩み、他人との関係を大切にする「渡辺曜」なのです。

 

結論:黒澤ダイヤはスクールアイドルがお嫌い

違うところ。同じところ。それを比べることでキャラの本質が見える。

作者や展開によって変わる部分があるのは当たり前です。しかし、それでも変わらない部分があって。だったらそれはそのキャラにとって一番大事な部分、キャラの本質だと言えるのでしょう。

例えば。アニメの桜内梨子はどうしてあのような性格なのか?現実的な考えを優先するあのスタンスは、別に元々そうだったんじゃなくて「ピアノを真面目にやることで経験したこと」によるものではないのか。ピアノを趣味でしかやってないG'sではもっとふわふわとした性格だから、そう考えるのはおかしくない。才能が求められる仕事を真剣にやってると性格ひねくれるのも仕方ないよね。個人の経験談ですけど。

例えば。そもそもG'sの高海千歌はどうして松浦果南と一番仲良くしてるのか。松浦果南松浦果南で、千歌を独占出来ててちょっと嬉しい、みたいなことを言っていますが。それはこれが「黒澤ダイヤと仲良くならなかった世界」だからではないでしょうか。

果南は自分とは別世界に住んでいるダイヤに近づかなかった。だから高海千歌と遊ぶことになった。近くに遊ぶ相手がいるんだから、高海千歌渡辺曜ではなくそっちを優先した。一方で、隣にダイヤがいないせいで、果南は小原鞠莉ともただのクラスメイトという関係に留まった。色々繋がりますよね。

小原鞠莉小原鞠莉で、G'sでは果南やダイヤと仲良くならなかったので、特定の誰かに縛られることもなく自由に生きていて、内浦に対しても特にこだわりは持ってないのですが、やっぱり孤独だったような雰囲気を持っていたり。

そして、黒澤ダイヤ

アニメ版ではかなりはっちゃけた姿を見せている彼女ですが、G'sでは別にそうでもなくて。生真面目で、強く振舞ってて、でも本当は弱くて、アニメ以上に素直になれない人間で。黒澤家の長女としての責任に押しつぶされそうになっている。

もしかしたら、それは「松浦果南と仲良くならなかった世界」だからではないのか。孤独な育ち故の性格だと考えれば、なるほど、確かにそういう特徴が多いです。あの性格の果南と一緒に時間を過ごして、時には果南の無茶振りに付き合ったりした幼少期は、きっと本人に良い影響を与えたはずです。Sea Side Diaryでも二人の友達に背中を押される描写があったり。

そうして性格の「改善」は、もしかしたら妹との関係にも影響を与えたのではないのか。G'sの黒澤ダイヤは本当に暇さえあれば妹であるルビィのことを馬鹿にしていて、見てるこっちが心配になるくらいなのですが、アニメ版では逆に周りがちょっと引いちゃうくらいの妹愛ですよね。

もちろんG'sのダイヤも「ルビィのことは結構好きよ、本人には秘密だけど」みたいなことを言っているのですが、妹との仲がアニメ版ほど宜しくないのも事実。お互いのことが好きなのは確かなので「距離を縮めることが上手く出来なかっただけ」だと思われます。そりゃそう。あの面倒くさい性格だもんね。可愛いけど。

果南との関係のおかげで性格がずいぶん良くなった。そのおかげで妹とも仲良くすることが出来た。そしてそれによって。妹の趣味であるスクールアイドルに興味を持ったのではないんでしょうか。

最初に言いましたが、G'sのダイヤはスクールアイドルについて良く思ってなかったんですよね。しかしそれは最初のうちだけで、活動を始めた後は結構楽しんでいる。むしろ性に合ってると思えるくらいです。スクールアイドルについての理解が足りなかっただけでしょう。印象だけで偏見を持ってしまってただけ。

それが妹と仲良くなることで、自然に妹の趣味にも触れることになって、早い段階でハマったのではないか。 性には合うのですから、きっかけさえあればハマれるのです。しかしG'sではそのきっかけがなかった。

「ダイヤはスクールアイドルに興味がなかった」というG'sの設定があるからアニメ版でも「姉妹のスクールアイドル好きはダイヤの影響」だという可能性はなくなる。どのメディアでも黒澤ルビィはスクールアイドルが好きという「本質」があるから成立する仮説なんですよね。

「スクールアイドルが嫌いな黒澤ダイヤ」と「スクールアイドルが大好きな黒澤ダイヤ」はそうやって生まれたのではないでしょうか。別に「違うキャラ」ってわけではない。キャラ崩壊でもない。違うのはキャラではなく環境なのです。

しかも、SSDによるとG'sの黒澤ダイヤだって、結局は果南と鞠莉、そしてルビィによって救われることが確定しているので、それはもはや「運命」と呼ぶしかないものですよね。アニメとは時期が違うだけで、いずれは必ずそうなるのだという。エモすぎる。

もちろん、今までの話は「公式」ではありません。公式で提示された情報を組み合わせ、私自身が一番説得力のあると判断した仮説でしかない。作者が狙ったところもあるかも知れないし、まあ別にそんなこと考えてなかった部分も多いのでしょう。

しかしこれは別に大学受験の問題ではありません。作家の意図を当てる必要はない。感想や批評というのは作品の中に存在する一貫性を論理的に組み合わせ受け入れることです。ただ、人間による作り物である以上、その一貫性は意図されている場合が多いのですが。

いわゆる「作家主義」に関する論議は長くなるから省略するとしても、オタクは元々「○○ちゃんが可愛い」と考える生物であって「○○ちゃんは作家によって可愛く描写されているな」と考える生物ではないはずでしょう。作家が意図しているかなんて関係なく、登場人物たちは作品の中の世界でちゃんと生きている。提示された情報を集め一番しっくりくる解釈を考える。その考え方こそがオタクの業だと思います。っていうかみんなも普段やってるよね。今回は別メディアにおいてそれを実践しただけで。

そりゃね、この問題において「正解」なんてないのですよ。高海千歌はみかんが嫌い、みたいな「不正解」はあって、それを重ね続けることで正解に近づいていくことは出来るけど、やっぱり完璧な正解には辿り着けない。

でも一つだけ、はっきりと言えるのは。キャラ崩壊、キャラが違う、別人、そういう結論を出すより、こっちのほうが楽しいということ。だからこそこのクソ長い記事を最後まで読んでくれたのではないのでしょうか。いや、暇だから読んでみたけどクソだった、という方には申し訳ないですが。

スクールアイドルが好きでも、嫌いでも。黒澤ダイヤ黒澤ダイヤである。大好きな作品やキャラと真面目に向き合って、もっと楽しみましょうよ。それが今日の結論です。

 

 

…えっ?子安先生のドラマパートはどうなのかって?知らないよ!!!(投げやり