μ'sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪:μ'sと「あなた」のファイナルライブについて

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*この記事は2016年4月3日に書かれたものです。ほんと時間早いなぁ。

 

前回のラブライブ!

ラブライブ!」はメディア毎に設定が違う、とよく言われていますが、実はちょっと違うんですよね。

だって、同じメディアでも設定が違う場合があるんですよ。なぜこんなことが起きているのかというと、原案である公野櫻子の、設定など飾りであるとでも思ってるような創作スタイルのおかげです。何にせよ0歳のキャラが誕生日を迎えて0歳になるという恐ろしい偉業をやり遂げたせいでGODと呼ばれるようになったくらいですから。

ドラマパートなどの脚本を担当した子安秀明も設定なんてあまり気にしない人で、まあ色々と設定がブレまくってた「ラブライブ!」ですが、ひとつだけ確かなのは、今の時点で「ラブライブ!」の正史、メインストリーム扱いされているのは、アニメだということです。もともと「コンテンツの集大成として企画されたアニメ化」であるという言及もあって、アニメ以後のコンテンツやグッズなどはほぼアニメを基準にしているくらいで。メディアの特性上、アニメ内では設定が急に変わったりしないし。

そして。この「ラブライブ!」というアニメは、徹底してμ'sの物語を描いています。アニメで描かれる彼女たちだけの物語に「あなた」が踏み入る余地なんてありません。読者参加型企画として始まった作品で、他のコンテンツでは普通に「あなた」の影が見えていて、現実の「ラブライブ!」では「あなた」を10番目のメンバーとして扱っているにも関わらず、アニメのμ'sは執念さえ感じられるほど自己完結性を重視しています。

彼女たちの世界は彼女たち9人だけのもので、他の人物(例えば、絢瀬亜里沙)の侵入を許さない。まあ「Angelic Angel」や「SUNNY DAY SONG」などでは他人のために活動したりもしますが、結局μ'sが一番大事にしているのは自分たちのための選択です。

最後の最後に登場する曲「僕たちはひとつの光」はその自己完結性の頂点です。

自分たちのためだけで準備した曲と、それを歌う彼女たちの最後のライブ。

「あなた」としてはそのライブを準備する過程で何があったのか、それがどういうライブだったのか、その内幕を知ることが出来ません。「あなた」は雪歩と亜里沙という他人の説明によって、しかも既に過去になったライブの一部だけを覗くことしか出来ない。μ'sの軌跡をリアルタイムで、しかもすぐ隣で直接見てきた今までとは違う。

現実の「ラブライブ!」は「あなた」を含めた「みんなで叶える物語」でした。なのに「あなた」が大好きなフィクション内のμ'sの世界に「あなた」はいません。私たちラブライバーはずっとそんな限界を内包していました。

 

Final LoveLive ~ μ'sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪ ~

ファイナルライブの話をしましょう。これ以上なんて想像すら出来ないくらい素敵なライブで、言いたいこともたくさんありますが、今回はとある部分に注目してみようと思います。オープニングアニメーションについて、ですね。

去年の5thライブでもアニメーションが登場していました。なんと現実のμ'sがやってきたコールアンドレスポンスをアニメのμ'sが再現するという内容でしたよね。現実とフィクションを繋げる、「ラブライブ!」のコンセプトに相応しいものです。そこには「あなた」の存在もそれなりに反映されています。しかしそれはあくまでもサービスに過ぎないものでした。正史に含まれるような内容ではない。それに「あなた」はただの観客に過ぎなかった。

ですが今回のオープニングアニメーションは違います。音ノ木坂、アルパカの出産で始まるアニメ。

アルパカの出産は2期の内容から繋がるネタだし、劇場版で海外に行ってきたことについて語っていたり、今が「SUNNY DAY SONG」以後の時点であることを直接的に言及したりしています。これはサービスではなく、メインストリームから直接繋がる内容、後日談であると。3年生も制服を着ているのでまだ3月。ライブをやるらしい。それはつまり劇場版で提示されていた、μ'sの最後を知らせるライブです。

今回「あなた」は舞台上のアイドルと客席の客としてはなく、学校というプライベートな空間でμ'sと出会います。そんな彼女たちは「あなた」の存在を強く意識し話しかけてくる。それに「あなた」の住んでいる現実でファイナルライブの開催日は作中のライブと同時期である3月31日であり、フィクションと同じくμ'sの最後となるライブです。

その丁寧な装置によって、現実のファイナルライブとフィクションのファイナルライブは「同じライブ」になります。同一なもの。しかもそこには劇場版と違って「あなた」が存在している。その内幕を知ることが出来なかったただの客としてはなく、μ'sと一緒にこの夢のような物語を作ってきた、10番目のメンバーとして。

そして「あなた」はファイナルライブの内容をその目で観測することになります。μ'sと一緒に笑ったり泣いたり、コールをしたり歌を歌ったりダンスをしたりしながら、一緒にライブを作り上げた。そしてそんなファイナルライブの最後を飾るのは「僕たちはひとつの光」である。花が咲いて曲が流れる瞬間、フィクションと現実のファイナルライブは完全にひとつになります。

というのは、つまり9人と9人の出演者も「重なった」ということです。このファイナルライブの瞬間だけは、同じ気持ちでライブに挑むひとつのμ'sとなったのです。それぞれ全然違う道を歩いてきた二つのμ'sなのに、このライブでだけはひとつになる。「今日は南ことり役の内田彩ではなく南ことりそのものになりたい」と言っていた内田彩さんの言葉通りに。

僕たちはひとつの光」はμ'sのためだけに作られた曲でした。誰にも見せず自分たちだけで歌いたいと語るキャストもいるくらいです。だから劇場版の応援上映でその曲の点呼に「10」を入れたり、曲を合唱したりすることに凄く違和感があったのです。しかしこの瞬間「あなた」はただの客ではなく、彼女たちと一緒に走ってきたμ'sの10番目のメンバーです。あの日あの瞬間、全てのμ'sが僕たちはひとつの光を歌い、今が最高だと叫んでいた。この曲の作曲家であるZAQさんはその光景を見てこの曲が「やっと完成された」と表現しました。その通りです。

その内幕が空っぽだったμ'sのファイナルライブは、この瞬間、やっと完成されました。現実のμ'sとフィクションのμ'sはひとつになり、今まで排除されていた「あなた」もμ'sの10番目のメンバーとして物語の最後を飾った。そのためのオープニングアニメーションで、そのための「僕たちはひとつの光」だったのです。

はて。ファイナルライブの真相なんて私は知りません。仮説なら良いものから最低なものまでいくらでも出せますが、そのどれかが真実であると判断できる根拠は存在しません。しかしそもそもそんなのはどうでもいいと思います。どんな理由で、どんな意図があったとしても、そんな知る術もない真実なんて私たちには何の意味もありません。そんなことよりも確かなものがあるじゃないですか。 

18名のスクールアイドルたちが、数多くのスタッフたちが、数万人のラブライバーたちが作り上げたファイナルライブは、その瞬間の輝きは、紛れもなくそこに存在していた「真実」ですから。その向こうに何があったとしても、あの時私たちはそれを作られたニセモノではなく「本物」にしました。いかなる言葉もあの瞬間、あの場所で私たちが共有した心を、眩しい青春の1ページをニセモノにすることは出来ない。それだけが確かな真実であると、探し続けていた輝きであったのだと、私は信じて疑いません。