貴方とアナタと私達:津島善子の二面性について

 私と貴方とワタシなら:善子とずら丸の話

名前。対象を他のものと区別するために与えられた言葉。

普通は対象の特性や由来などから付けられるのですが、人の名前はちょっと違います。多くの場合、人名というのは生まれる前後に付けるので、その時点では対象がどういう人間か把握することは出来ない。だからその代わりに、将来こういう人になってほしい、こういう人生を過ごしてほしい、という意味を込めて付けたりする。

津島善子」という名前にも、そういう願いが込められているのでしょう。

 

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 「私、本当は天使なの!いつか羽が生えて、天に還るんだ!」

幼い「津島善子」は自分が天使だと思っていました。しかし、天に還る「いつか」なんて来なかった。なんでだろう。多くの人はこう考えるのしょう。自分は天使なんかじゃなかった。人間だから天に還れないんだ。しかし善子はそうは思わなかった。

 

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「マル、分かる気がします。ずっと、普通だったんだと思うんです。私たちと同じで、あまり目立たなくて」

「そういうとき、思いませんか?これが本当の自分なのかなって。元々は天使みたいにキラキラしてて、何かの弾みでこうなっちゃってるんじゃないかって」

善子は自分の普通を受け入れることが出来なかった。だから普通から逃げて、天使を名乗った。しかし天使ではない現実を見せ付けられた。彼女はそれも受け入れることが出来ず、また逃げることにしたのだと思います。こうなっちゃってるのは「何かの弾み」のせいだ。天に還れないのは「天から追放された堕天使だから」だと。

善子は名前が持つ重さをわかっています。名前とはその人を象徴する大事なもの。それをわかっているからこそ、彼女は自分の名前を拒む。彼女に運命として与えられた「自分」と、彼女がなりたいと願う、もとい、あるべき本来の姿だと思っている「自分」は全然違うのですから。堕天使は「善い子」ではない。

だから、彼女は自分を「津島ヨハネ」として名乗り始めました。自分の特性や由来を象徴するに相応しい名前として。

 

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  高校生になった津島ヨハネは、なぜか家からかなり離れている浦の星女学院に入学しました。理由は何かと言うと、多分これしかないですね。

「よかったずらね~。中学の頃の友達に会えるずら」

「統廃合絶対反対!!」

……よくある話ですね。新しい場所で、新しい人たちと、新しいスタートを切ろうとした。そういうことでしょう。彼女はまた「何か」から逃げてしまったのです。中二病が治ったので中学時代の黒歴史を知る人がいない場所で新しく高校デビュー、なんて内容の作品もあったのですが、そういう感覚なんでしょうね。

 

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しかし津島ヨハネの目的はそれとはちょっと違うのではないでしょうか。

入学式での彼女はとても「こんなつもりじゃなかったのに、ついやってしまった!」という雰囲気ではないです。非常にノリノリだし、やりとりが長く続いてるにもかかわらず「津島善子」が出てくる様子はない。だとすれば、彼女はよくある話とは逆に「堕天使の津島ヨハネ」としての高校デビューを果たそうとしたのではないか?

地元だから「津島善子」を知る人が多すぎて堕天使が上手く行かなかったのか、それとも何か事情があるのか、さすがにそこまでは知る術がないのですが。

とにかく、堕天使としての輝かしい高校生活を始めようとしていた、としましょう。

 

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「やっぱり善子ちゃんだ!花丸だよ。幼稚園以来だね~」

ああ、なんて不運なことか。せっかく逃げてきたというのに「津島善子」を知るものと会ってしまったんです。

この時点の善子が「中二病にさようなら」なんて考えていたとしたら、それこそ「津島ヨハネ」を知らない国木田花丸の存在はむしろ好都合であるはずです。しかしこのあとも必死に「善子言うな」を主張しているので、やっぱり彼女は堕天使として高校生活を始めたかった可能性が高そう。クラスの自己紹介でもばりばり「津島ヨハネ」だったり。

 

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「善子言うな!いい?私はヨハネヨハネなんだからね!」

しかしそんな彼女に突きつけられたのは「津島善子」の名前。どれだけ逃げてもそれはずっと追いかけてくる。現実から、自分自身から逃げることは出来ない。それを象徴するのが国木田花丸なんです。まるで何かの使者のような。どうするべきか?

彼女はまた「津島善子」から逃げることを選択しました。

 

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津島善子」ではなく「津島ヨハネ」としての自己紹介。

しかし彼女が望んでいたのはこんな微妙な反応じゃなかったはず。いやまあ、確かにこれも「普通」ではないんですけど、全然キラキラしてないので。これじゃ高校デビューは失敗ですね。それで彼女はまた逃げ……いや、どんだけ逃げるんだよ。

  

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「やってしまった~!」

「この世界はもっとリアル!リアルこそが正義!リア充に、私はなる!」

さっきも言いましたけど、わざわざ浦の星女学院に入学するくらいなんだから、中学の時も色々あったのでしょう。それに自己紹介も大失敗。いい加減懲りたのか、堕天使なんて卒業してリア充になってやるというすごい敗北フラグを立てる津島ヨハネ……もとい、津島善子

現実から逃げ続ける彼女をAqoursが追いかける、沼津のチェイス……というここからの展開はまあ1期5話のときも話したので省略して、今回はとある人物に注目してみましょう。国木田花丸

 

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津島善子」としてのやりなおしに挑む善子は、花丸に「ヨハネを止めて」とお願いします。つまり、自分を「津島善子」に固定させてほしいと。

善子としては単純に「唯一の知り合いだから」くらいの理由だとは思いますが。他に頼める友達とかいないし。それでもそういう役割なら、確かに花丸が適任ですね。

「なんだっけ、確か、ヨ、ヨ、ヨハ…」

「善子!私は津島善子だよ」

そんな会話をしていたクラスメイトの子達と違って、国木田花丸は「津島善子」を知っている。それだけではなく、彼女は「津島ヨハネ」までも「津島善子」として認識しています。善子がなんて主張しようが、何を演じていようが花丸には関係ないんです。彼女にとって「善子ちゃん」は「善子ちゃん」でしかない。彼女の認識の中ではそういうことになっているのでしょう。入学式の時も善子の話なんてまるで聴いてないかのように振舞っていたし。

でもそれは別に善子を無視しているわけではありません。むしろ彼女は「津島善子」を誰よりも理解しています。誰もが変な視線を送り、誰もが疑問視する善子の言動の理由を知っている。空想の世界が好きだったと言うのは、善子も、花丸も、同じで。だから自分と同じだと、分かる気がすると言う。分かっているからこそ、自分の幼馴染のことが「津島ヨハネ」には見えないのでしょう。

国木田花丸の中にいる「津島善子」は軸がブレない。安定している。梨子に「なんか心が複雑な状態にあるということは良くわかった気がするわ」なんて言われていた、その通りパーソナリティが不安定な今の善子にとっては都合がいいのです。

 

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善子が「津島ヨハネ」をまた受け入れることにした後も、花丸は「津島善子」を安定させる役割になっています。たまに「津島ヨハネ」の度が過ぎたり、タイミングが悪かったりすると阻止する。彼女はいつだって「津島善子」を見ている。

自分の「津島善子」から逃げた善子にその名前を突きつけてきた者。不安定な「津島善子」を好ましい範囲内に繋ぎとめる者。花丸は、そして花丸と善子の関係は、まさに「津島善子」を象徴するもの。

そんな理解者のことを、善子は「ずら丸」と呼ぶ。堕天使の「津島ヨハネ」としてのそれっぽい名前ではなく、花丸の幼馴染である「津島善子」として付けた名前で。それはきっと、善子が「津島善子」と向き合っているという証なのでしょう。

 

いつかどこか私と貴方:ヨハネとリリーの話

花丸は何が何でも自分の認識を「名前」という形で表現していました。表現とは認識が反映されたものである。簡単に変わるものではない。そんな感じです。

しかし善子は違う。彼女はとりあえず新しい名前を付けるところから始めようとする傾向があります。天使、ヨハネ、リトルデーモン、ライラプス、リリーなどなど。対象の本質をちゃんと認識してはいるはずですが、それでもわざと違う名前で呼ぶ。

それはただの妄想とはちょっと違います。善子は堕天使なんてものが「存在しない」ということはちゃんと分かっている。善子は名前の重さだって知っている。だからこそ、自分が望む特性を「名前」という表現を使って与えているのでしょう。形から入るとでも言うべきでしょうか。そういう表現をすることで、認識を上書きしようとしている。

認識を表現するのではなく、表現を以て認識を変えようって。

珍しい話でもないですよね。幸せだから笑うんじゃなくて、とにかく笑えば幸せになるとか。出来ると言い聞かせれば自信が出るとか。そういう話、あるじゃないですか。ただの迷信ではなくて、ちゃんとした研究結果とかもたくさん出てる。

 

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帰り道、彼女は犬を拾いました。もとい、出会いました。

邂逅なのだと彼女は言います。そして彼女は犬に名前を付ける。ライラプス。でもその出会いはどうやら運命ではなかったようで。あっさりとお別れの時間を迎えました。そのはずなのに、何故か「運命の出会い」に拘る善子。それは「単純に犬が好きだから」という域を超えている。

 

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彼女は、何事にも意味があると思っています。そうであってほしいと願っている。天使のはずなのに天に還れなかったのは、堕天使だから。いつも不運なのも、孤独なのも。自分だけ何もかもうまくいかないことには理由があるはずだと。自分が特別だから、だと。そして、この運命の出会いはその「見えない何か」の証明であると。

「もちろん、堕天使なんているはずないって、それはもう何となく感じている。クラスじゃ言わないようにしてるし」

冷静に考えるとそんなの結果論でしかない。不運なんてただの偶然だ。そんな特別な理由なんて存在しない。不運の理由として語っていた堕天使なんて、実は存在するはずないと彼女は気づいている。現実を受け入れ「津島ヨハネ」を否定しようとしている。

「でもさ、本当にそういうのまったくないのかなって。運命とか、見えない力とか。そんな時、出会ったの。何か見えない力で引き寄せられるようだった。これは絶対、偶然じゃなくて、何かに導かれてるんだって。そう思った。不思議な力が働いたんだって」

そんな中、この出会いは「津島ヨハネ」を肯定してくれるものだと思った。だからその出会いに拘っていた。しかしあんこにとって善子は大した存在ではなかった。たぶん世の中は偶然の重なりでしかないのでしょう。見えない力は存在しない。それで「やっぱり偶然だったようね」と、善子は諦めたような声で呟きます。

善子は「津島ヨハネ」ではなく「津島善子」でしかないと。

 

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「でも、見てくれた。見えない力はあると思う」

しかし、桜内梨子はその諦めを、見せ付けられた現実を否定します。見えない力はある。それはつまり「津島ヨハネ」の肯定であります。善子が今まで何度も諦めようとしていたものを肯定している。けれど「見てくれた」なんて、ただの偶然でしかないはずで。梨子は一体何を根拠に見えない力はあると言うのか?

「うん、だから信じている限り、きっとその力は働いていると思うよ」

信じているから。彼女の根拠はそれだけです。でもそれだけでいい。堕天使の「津島ヨハネ」は元々、善子がそう信じたから生まれた存在です。信じたいと思ったから、何かに新しい名前を付けて、認識を上書きしようとしてきた。何かに名前を付けるというのは、その何かに意味を持たせる行為です。ただの偶然の重なりでも、そこに「運命」という名前を付ければ、それは必然となる。

 

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「私ね、もしかしてこの世界に偶然ってないのかもって思ったの。いろんな人が、いろんな想いを抱いて、その想いが、見えない力になって、引き寄せられて。運命のように出会う。すべてに意味がある。見えないだけで、きっと…」

偶然かも知れないけど、偶然でも構わない。そこに意味を持たせるのは自分自身の想いです。信じる想いが見えない力になって、すべてに意味を持たせる。ただの偶然を運命と言う名で上書きする。この世界に偶然はないと考えさせてくれる。

それは単なる結果論、精神論、後付け、こじつけじゃないのか?なぜ「名前を付ける」必要があるのか?桜内梨子はその疑問に答えるかのように、こう続けます。

「そう思えば、素敵じゃない?」

不運も、孤独も、出会いも、この退屈セカイも。どんな偶然だって意味を持たせたら素敵なものに思えてくる。特別になる。キラキラしたものに見えてくる。ただそれだけでいい。

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「ありがとう、ヨハネちゃん」

  桜内梨子は「津島ヨハネ」を肯定します。それだけではなく「津島ヨハネ」と同じ考えを持つようになった。信じること、名前を付けることに意味を見出した。彼女は善子の名前が「津島善子」であることを知っているけれど、あえて「津島ヨハネ」って呼んだ。認識より表現を重要視するその態度は、まさに「津島ヨハネ」のそれです。

それは「偶然」Aqoursに入った結果で、あの日「偶然」ヨハネと出会った結果である。彼女はそれを運命と呼ぶことにした。そんな桜内梨子の存在は「津島ヨハネ」の考えは間違ってなかったという証明になっています。

その後も梨子は「津島ヨハネ」の影響を受けることになります。なんかどんどん堕天していく。善子の表現が梨子の認識を変えていくのです。花丸はたまに善子を「止める」動きをしていますが、梨子は善子と「一緒に逃げる」動きをしていたり。

善子ですら否定しようとしていた「津島ヨハネ」を、その身を以て肯定する者。不安定な「津島ヨハネ」が消えないように繋ぎとめた者。梨子は、そして梨子と善子の関係は、まさに「津島ヨハネ」を象徴するもの。

そんな理解者のことを、善子は「リリー」と呼ぶ。堕天使の「津島ヨハネ」として付けた名前。名前を付けることで、桜内梨子との出会いに意味を持たせている。それはきっと、善子が「津島ヨハネ」と向き合っているという証なのでしょう。

 

貴方とアナタと私達:花丸と梨子と善子の話

桜内梨子は「津島ヨハネ」による表現に影響を受けている、とのことでした。しかし国木田花丸はその影響を受けずただ「津島善子」として認識していますよね。その違いはどこから来るのか?

 

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津島善子は堕天使という空想に焦がれています。国木田花丸も物語という空想に焦がれていた。小さい頃から花丸は目立たない普通の子で、いつも図書室で読む本の中で空想を膨らませていたと。だから善子のことを「分かる気がします」と言えるのでしょう。

「読み終わったとき、ちょっぴり淋しかったけど。それでも、本があれば大丈夫だと思った」

本とは、他人による表現であります。花丸はそれを消費していますが、その表現によって花丸自身の認識が変わる描写はありません。感想者とでも言うべきでしょうか。物語や雑誌の星空凛ちゃんに憧れることはあっても、それを自ら実現しようとは思わない。

表現の向こうにある他人の認識を楽しんでいるだけ。表現によって自分の認識が上書きされたりはしない。それは「津島ヨハネ」の性質とは真逆です。だから花丸は「津島善子」だけを認識する。自分の認識の中では既に「津島善子」が書かれているのだから。

彼女のマイペースな側面とか、知識を重要視するところも、そんな性質から来ているのではないでしょうか。影響を受けないから、よっぽどのことじゃなければ自分のペースでいられる。認識、つまり「知っていること」が重要だから、知識を優先する。

 

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津島ヨハネは自分の世界を「堕天使」という形で積極的に表現しています。桜内梨子も自分の世界を「音楽」という形で積極的に表現している。そんな梨子は花丸と違って、外部の表現、もしくは事象に影響を受けることが多い。

「だって、ピアノ弾いてると空飛んでるみたいなの。自分が、キラキラになるの」

ピアノに夢中になったのも「音」という外部の表現に感銘を受けたから。海の音もそうですよね。景色に影響され、それを自分の中で音という形に変えた。インプットを単純に消費するだけではなく、影響され、自分の認識として昇華し表現するという、いわば表現者です。

だから「津島ヨハネ」の表現にも影響を受ける。表現で認識を変えられると思うのはまさに「津島ヨハネ」の性質で、そんな彼女が津島ヨハネを肯定したりするのは、花丸-善子と同じく根本的なシンパシーがあるから、なのかも知れません。

けれど影響を受けやすいというのは、ネガティブな事象に対しても同じです。周りのプレッシャーのせいで音楽的表現が出来なくなったり。2期の序盤では現実的問題に対しすぐ諦めるか妥協するという選択肢を取る、現実主義的な側面もあったり。認識より外的要素が優先しているわけです。

 

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善子は不安定です。他のメンバーと違って自分自身や自分の「思っていること」に対する確信があまりない。

堕天使な自己紹介をやるけど受けが悪いから逃げ出す。スクールアイドルをやってみるけどダイヤに怒られて諦める。堕天使を受け入れたけどやっぱり堕天使なんて本当はいないんだと考える。空気など読まない孤高の堕天使ヨハネを演じてるけど、善子本人は他人の反応に振り回されます。確信がないから。

対して他のメンバーたちは何かのきっかけで考え自体が変わることはありますが、自分のスタンス自体に確信がない、ということはほぼありません。

 

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たとえば、作中で何回も考えが変わっていた千歌の場合、自分が無力だと思っていて、それを疑わない。曜と梨子がそれを指摘したときの返事も「だってそうでしょ?」であるくらい。そのあと説得され考えを改めることにはなりますが、考え自体が簡単にブレたりはしないのです。花丸とか、梨子とか、3年生とか、全部同じ。

しかし善子は、自分の堕天使などに対する確信が薄い。思ってることをやろうとはするけど、すぐ不安になったり、逃げ出したり。自分のスタンスが正しいのかわからず「なんとなく感じてる」「そういうの全くないのかなって」なんて曖昧な言い方をします。

だから基本的に「表現→認識」が出来ると思ってはいても、善子はそう言い切ることが出来ないし、時には自分で否定までします。彼女は「津島善子」と「津島ヨハネ」という二面性を持っていて、それはかなり不安定な状態でした。

プレッシャーにはなったけど、実力をちゃんと評価されていた梨子とは違って、善子は好ましい「表現」を経験出来てません。だからと言って、花丸みたいにそういうのを気にせずマイペースを通せるタイプでもない。そりゃ自信なんて付くわけがなく、結局「自己」が不安定になる。

 

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だから物語上で善子が受けるアプローチも、否定ではなく肯定の形をしています。やっぱり堕天使なんて駄目かな。善子ちゃんは堕天使でいいんだよ。やっぱり見えない力はないのかな。見えない力はあると思う。善子がずっと思っていて、信じたいけど信じられないものを肯定する形ですね。

他キャラがメインになる話は大体「出来るわけがない」を「そんなことない」と否定する形ですよね。確信をもっと大きい確信でひっくり返す。そのふたつの確信は真逆の内容だから、思いっきり衝突します。対して善子の話は、曖昧な気持ちで迷っている善子の信念を肯定しその背中を押してあげることになっている。

 

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そんな善子の物語において重要なポジションに立っている二人のパーソナリティは、そして善子との関係はその性質が全然違います。

けれど、だからって競合したりはしません。真逆だけど衝突しない。むしろ一緒に善子の願いを叶えてあげようとする。だって、津島善子と津島ヨハネは共存しているのだから。二人で一人だから。

善子が二人との関係を上手く作り上げ、それを両立出来ているのは、最初は不安定だった善子が自分自身の二面性と向き合って、肯定し、ちゃんと受け入れ、成長させたことを象徴しているのではないかと思います。

二面性を持っているけど、どっちも不安定だった善子。花丸と梨子はそれぞれ「津島善子」と「津島ヨハネ」を象徴する同時に、それを肯定し安定させる役割である。素敵な友達に支えられながら自分の道を進む、津島善子ちゃんの話でした。